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  • 執筆者の写真TUNA

TUNAと音楽、の話

初めて記事を書くので何にしようと考えていました。せっかくなので私と音楽の関わりについて書き残そうと思います。

私の3つ上の姉は幼稚園からピアノを習い始めました。私はというと幼稚園から絵を褒められることが多かったので、習い事はせず部屋にこもってずっと絵を書いている子でした。姉とは仲が良かったので、姉がピアノの先生ごっこをする時に生徒役をやっていて、それでなんとなく楽譜の読み方とか両手でピアノを弾く方法とか、基礎を教わりました。それと、遊びの一つとして姉が歌を作っていたので、歌詞を描いてメロディをつけて、ノートに書くのがとても楽しかった。いまだにその当時の曲をいくつか憶えています。まあさすがに、どっかで聴いたことがあるものもあったりして、遊びは遊びなんだけど、今までの曲作りの原型は全部そのままだと思います。

実家には姉のためにアップライトピアノがあったので、私も弾くのが楽しくてしょっちゅう借りていました。楽譜を見ながら弾くっていうのは今になっても出来なくて、当時からつねに暗譜でした。音楽の知識があるような、ないようなままピアノを弾いていたので、コードっていうのが今もよく分かってないんですが、「ドレミファソラシド」が「ドから始まるやつ」「レからはじまるやつ」・・・というセットが全部で7つある、というルールでずっとやっていました。音と音の距離の把握が昔から出来ていたけど、その音の名前が分からないというか・・・。プロではやっていけなそうなマイルールだけでピアノと向き合っていました。そのうち楽譜を読むのが面倒くさくなって、右手は主線、左手はそれに合う和音を抑える、という伴奏の出来損ないみたいのをオリジナルで弾くのが好きになりました。流行っているポップスとかも全部試したりして、学校でちょっと弾いてみたり。和音は、基本的に主線の1音が含まれていれば合うっていうルールで弾いていました。

また、小学生の時、姉がピアノをやっていてリズム感があるから?という理由で(たぶん)、マーチングのスネアドラムに選ばれました。そして数年後自分もマーチングをやる学年になったとき、姉がやっていたからという理由で私もスネアを叩くことに。それが大きなきっかけで、中学に上がってから部活を初めて吹奏楽部にしました。高校では部活動禁止だったので中学3年間だけ、吹奏楽部のパーカッションを担当しました。体験入部の時に先輩がドラムセットを叩いているのがすごくかっこよくて、ドラムをやりたい!という目標を持って。入部してからはスネアやドラムセットはもちろん、シンバルやマリンバやティンパニを演奏したり、好奇心旺盛で目移りしやすい私にはパーカッションがとても合っていたと思います。目立つ時はそんなにないけど、曲のオイシイとこでアクセントを入れたり他を引き立たせたりするのもすごく楽しかった。

小学生の時には数曲しか書かなかったけど、中学生の時はやはり音楽を聴くようになったり恋愛したりしてどんどん曲が出来ていきました。私の場合、詞を先に書いて、鼻歌式でメロディをつけていくので伴奏がなく、主線を自分だけがわかる記号で(ほとんどドとかレとかそのまま書いてるだけ笑)歌詞の上に書き込んでいくだけ。なんとなく伴奏こんなだったらいいなっていうのはあったかもしれないけど、伴奏の作り方も分からないし、そんな詞とメロディだけのものを大量に作るのが楽しかったし、感情のはけぐちだった。

歌についてたどると、小学生の時にSPEEDが大好きで大きな声で歌っていたら、父に「hiroに声が似てるね」と言われたのが嬉しくて、歌うのが好きになりました。今思えば私は耳と記憶力がいいので、モノマネがある程度得意なんだと思います。無意識に声の出し方とかを喉の動きで調節できたりしていたのかも。それで家で一人で遊んでる時はずっと歌ってたりして、でも中学に上がったらやはり高い声が出なくなってしまった。それに、合唱では自分の声の出し方は浮いている、音痴かもしれない・・・と思って段々自信を持って歌えなくなりました。曲はどんどん出来ていくのに、私は歌が上手くもなければ声に特徴もないし、歌い切るスタミナもない、自分で作った曲を歌うのは無理かもしれない、と子供ながらに思っていました。そこから抜け出せたのは高校でaikoさんにハマってからかもしれません。aikoさんばかり聴くので、当然カラオケで歌いたくなるんだけど、お得意のモノマネ発声法で歌ってみたら上手く行ったのかもしれない。カラオケで上手いねと言ってもらえて、とりあえずaikoさんばっかり歌っていたら、まず裏声の出し方がわかってきて。それから歳を取るにつれて聴く音楽が増えて、様々なアーティストの歌い方を吸収したと思います。木村カエラさんからは「まっすぐ自分の声で歌を歌うこと」の大切さを、チャットモンチーの橋本絵莉子さんからは高音の出し方を学んだりしました。それから姉と松田聖子さんにハマった時期があって、カラオケで聖子ちゃんを思い切り歌ったとき、思わず「え?これ私の声?」って言った日を今でも覚えています。マイクに乗った自分の声が「大声」じゃなく「歌声」になっていたなあと。あの感動は忘れられないです。それからはカラオケ大好きになって、でも声が嗄れてくると楽しくなくなってくるから、いかに声を嗄らさず歌えるか、いろいろ声の出し方を研究して、今に至ります。今の課題は、低音をいかに出すか。低いほうが苦手なので、試行錯誤しているところです。

ここまで個人的には音楽と深く関わって生きてきたつもりなんだけど、実は周りからはそう思われていなかった、というのにも苦しみました。私はやはり小さい頃から「絵が上手い、漫画を描く人間」という係を与えられていると思ってしまっていました。特に親からは、美術方面を伸ばすように褒められてきたので、私からは曲作りや歌うのが好きだと言えなかった。それもあいまって、学校の友達も誰も知らなかったし、「曲を作ること」は私にとって「秘密の遊び」でしかなかった。全部聴いたことあるメロディかもしれないし、詞を書いてるなんて気持ち悪いと思われそうで怖かった。自信がまったくなかった。それを打破したのは、きっかけは忘れてしまったけど、高校卒業を機に私の親友たちに初めて打ち明けたところからでした。いちばんの親友が、私のデモテープを聴いて、思いを手紙にしてくれたんです。今でも大事にとってあって、何よりも勇気と愛情をくれる宝物です。そこから親友が私の音楽制作を支えてくれたと思います。色々なアーティストの曲を聞かせてくれたり、ギターを弾く友達を紹介してくれたり、私の曲を褒めてくれたり。彼女が私の空気みたいな透明だった音楽に、はっきりとした輪郭を与えてくれました。それで、デモテープを作って送ってみたりしたけどまあ当然返事はなく笑、だけどそうやって動き出せたのは彼女のおかげでした。ただパソコンがなかったので、伴奏をピアノでやるしかなく、ただ和音を抑えるだけじゃつまらないな、ちゃんと「伴奏」としてのピアノを考えなければ、と色々工夫しました。今はすぐ打ち込みにしてしまうので、すごいガッツがあったなあと遠い目で思います。

1年ダブって短大に進学すると、バンドマンと初めて付き合って、宅録のノウハウを学びました。そのつながりもあって文化祭のライブに出ることが出来て、弾き語りで1曲披露しました。バンドも組んだことがなくカラオケ以外で、しかも自分のオリジナル曲を人前で披露するのはとても緊張したし恥ずかしさがすごかったけど、今思えばもっと何曲かやればよかったなと・・・笑。当時はMacを買ったばかりでまず使い方も慣れていなかったけど、GarageBandで歌を録る方法を知って、だんだんと自己流でいじっていって、今のように伴奏も作れるようになりました。楽譜が書けないから、自動で自分のメロディが楽譜で表示されるといまだにテンション爆上げだし。また、カラオケではもうだいぶブイブイいわせていて、飲み会で行くと「岩手のaiko!」(そんなに言われてたっけ?短大のaikoだったかな?)と言ってもらえたり「音楽をやっている人間」というイメージを定着してもらえたかなあと思います。

上京する直前、人からの紹介でライブハウスに立つチャンスもあったけれど、自信のなさから出来ず。結局ライブというものをしないまま曲をリリースする形で10年以上活動してきました。弾き語りも得意ではないし。だけど私の曲作りは「誰かに聴いてもらえたらラッキー」が根底にあって、やっぱりただの感情のはけぐちでしかないと、最近強く思います。「多くの人に聴いてもらうために作る曲」と「自然に生活の中でできた曲」は、私の中では大きく異なると思います。それに、トラックを夢中で作りあげたあとの、達成感、無敵感、「こんな自分でもこんな曲が出来た!」という気持ちが私の生きる気力だし、自分を褒めてあげられるひとつの方法なのです。自分が作ったものを誰かに批評されることは嬉しい。その中でも絵は「誰かに評価されるため、喜んでもらうため」に描くのに対して、曲を作ることはやはり自分で自分を認めるための手段であり、吸収して得たものを応用して出来上がった排泄物であり、出さずにいられないものでしかない。自分の音楽はこれからどこへいくのか、今はよくわかっていませんが、とりあえず歌詞の状態で眠っている曲は全部起こしたいし、音源にさえすれば形として残るし、自分が死んだ後でもいいから誰かの耳に届いたら良いな・・・とぼんやり思いながら、これからも曲作りを、歌うことを楽しんでいきたいなあと思います。

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